シオニズムの歴史 
        ・・・レニ・ブレンナーファシズム時代のシオニズム』芝健介訳、法政大学出版局 2001



第1章 ホロコ―スト以前のシオニズムと反セム主義

 シオニズム・・・「圧迫されたユダヤ民族を引き取って独自の国家建設によってあがなう」5


   「独自の
国家建設」・・・これが、ユダヤ民族主義の国家建設として、根本の問題を形成する。


 バルフォア宣言とその評価
 「せいぜいのところ宣言は世界シオニスト機構に対し
民族的郷土(National Home)パレスチナに建設するのを認める、
一つのあいまいな保証に過ぎなかった。」・・・「民族的
郷土」と「民族国家」とは、一致しない。

 シオニズム運動は、結束した資本家と結びつく
反革命運動として登場
       ・・・シオニスト・ユダヤ人とボルシェヴィキ・ユダヤ人の闘争。

 シオニストと反セム主義との協調
 「反セム主義は不可避であり、これと戦って克服できるようなものではない。
 唯一の解決方法は、移住を望んでいないユダヤ人を生成ユダヤ
国家に移住させることである、
 というのがシオニズムの基本的考え方である。」


第2章 「血と土」――シオニズムの人種論のルーツ
   



第3章 ドイツのシオニズム運動とヴァイマル共和国の崩壊



「有名なシオニストたちはユダヤ人に警告せずあるいは防衛を呼びかけたりはせず、
それどころか、反ナチの活動に反対さえした」50.

「反セム主義の正当性を認めなければ、我々自身のナショナリズムの正当性をも否認することになる。
 わが民族が自らの国家生活を送るに値しまた国家生活を送る意志をもっているならば、
 我々ユダヤ人は諸国家に対する攻勢をおこなう異化体であり、他の民族の生活領域を縮小させることによって
 他と異なる自らのアイデンティティを主張する異化体である。したがって他の国が我々に抗して
 自らの国家の領土保全を求めて戦うことは正当である。・・・・」51


ドイツ・シオニスト連合の指導者の一人、ブルーメンフェルト: 
 「ドイツはアーリア人種の国であり、ドイツを生国とするユダヤ人が公職に就くことも
 別のフォルク(民族)の問題に首を突っ込む違法侵入でしかないのだという反セム主義の立場
 ブルーメンフェルトは受け入れた。」51



シオニスト連合の指導者たちは、ナチの反ユダヤ主義攻撃に対する「防衛活動に関して、
 「同化主義者と効果的な統一戦線を組むことができなかった。
 彼らは政治的には全面的孤立主義であり、しかも民族主義者であった。」53

 「彼らはユダヤ教ドイツ市民中央協会の「ドイツ・ユダヤ教徒はドイツ人である」という
 根本的前提を信じていなかった。むしろユダヤ人は自らのユダヤ性を強調すべきである
 というところに、その関心があった。もしユダヤ人が自らを、分離したひとつの民族マイノリティ集団とみなしはじめ、
 「アーリア人」の事柄に干渉しないようになれば、互いに「敬意を払う」共棲を基礎に、
 反セム主義者をして、ユダヤ人にたいし寛容な態度をとらせることが可能になろう、
 というところにその根拠はあったのである。」53


 ヒトラーの『わが闘争』を、まったく読んでいない発想!!

 レニ・ブレンナーの見地:
 「ユダヤ人がナチスをなだめるためになしえたようなことは実際には何ひとつなかった。
 ナチズムの打倒のみがユダヤ人を助ける道だったはずであり、戦闘的抵抗計画で反ナチ労働者階級と共闘できていたら、
 そのときはじめてそれはなされえたであろう。

  しかし、シオニズム連合指導部にとってこれは忌々しいことであった。
  1932年、ヒトラーが日増しに力を強めつつあった時に
 連合指導部はユダヤ人青年に「赤い同化」に染まらぬよう警告するための反共産党集会を組織することにした。」53



ドイツ・シオニストがナチ・イデオロギーの中の二つの基本的要素と一致

 すなわちユダヤ人は
ドイツ国民の構成要素には決してなりえないこと、

 したがってドイツの地には場違いな人種であること、の二点がナチスのイデオロギーと符号していたとすれば、
シオニストの中にナチとの間に妥協は可能だと考える者が出てくることも避け難かった。・・・」59







第4章 シオニズムとイタリア・ファシズム


1920年代半ば以降、ファシズム(ムッソリーニ)は、シオニスト(保守派)から祭り上げられる

 「保守派シオニストたちは、ムッソリーニを、マルクス主義政党やそれにくっついている同化ユダヤ人に対抗して
 自分たちを支えてくれる存在とみなした。」67


 ファシズムとシオニズムの教義の基本天理の多くが、「まさにユダヤ人の基本原理にほかならない」と67。



ムッソリーニとヒトラーの関係確立
          ・・・ヒトラーの態度は、『第二の書』で詳細に述べれれている。

ヒトラーはムッソリーニを反セム主義者と強調し、親ムッソリーニの態度





第5章 ドイツ・シオニズムのナチズムへの協力申し出

ドイツ・シオニスト連合による、新しいナチ体制の理論と政策への同調

シオニズム運動とナチズム運動のイデオロギー的類似性(リベラリズムに対する軽侮の念、
共通の民族至上主義的レイシズム(人種差別主義)、さらには、自明のこととして、
ドイツがユダヤ人の祖国にはけっしてなりえないという共通の確信)
によってナチスにシオニストを
支持する気を起こさせることができると、ドイツ・シオニスト連合の面々は信じたために、
アドルフ・ヒトラーの政権掌握後、ヒトラーによる後援を一度ならず何度も繰り返し懇請した。」72






第6章 ユダヤ人の反ナチ・ボイコットと
     シオニスト=ナチ通商協定

91
 
ニューヨークのユダヤ系退役軍人教会
 1933年3月19日、
ドイツ製品ボイコットを予告、23日に大がかりな抗議パレードを組織しようとした。
   市長もデモに参加し、共産党も参加しようとしたが、退役軍人たちは、
   党員が党旗をおろさなければデモに加わるのを認めなかった。
   ニューヨークのユダヤ教信徒共同隊体で、数千名のコミュニストの参加をはねつけたことによって、
   退役軍人小グループの努力は失敗の憂き目を見ることになった。
91
   軍人たちの失敗の後すぐ、シオニストのエイブ・コラニク、イェルサレムのヘブライ大学新スタディアム建設に
   寄金をおこなっていたシオニスト・シンパのサミュエル・ウンターマイアーは、最終的に超党派反ナチ同盟に
   結集する組織を協働してつくった。

   3月27日、マディスン・スクエア・ガーデンで大衆集会開催・・・・「この集会自体はゲーリングをきわめて不安にさせることになった」

     アメリカの政治家・教会関係者・労働組合幹部たちが参加。
     しかし、
大衆の支持を組織するための方策は何もなされなかった

92
   米国務省は、ヒトラーを共産主義に対する破城槌とみなしており、米国内の政治家も、大恐慌を終わらせるのに血眼になっていて、
   ドイツが市場になることを切望していた。その結果、民主党は、ヒトラーに反対しかつユダヤ人を支持するためになることは
   何もしない
ということになった。

  ボイコット運動・・・多くのユダヤ人組織が躊躇、反対など。

  しかし、「あらゆるアクティヴなユダヤ人組織の反ボイコット派のなかでも最も重要な役割を果たしたのは世界シオニスト機構であった。
  ドイツ商品を購入したばかりか、それをさらに販売し、ヒトラーとその産業界の支援者のために新しい顧客まで探し出してやったのである。


94
血の観念のアピール
  
  世界シオニスト機構は、そのドイツ支部、ドイツ・シオニスト連合と全く同様に、ヒトラーの勝利を何よりすべてのユダヤ人にとっての敗北
  とはみなさず、むしろ同化主義と自由主義の破産のポジティヴなしるしとみなした。自分たちの活躍できる時が目前に迫っていると
  感じたのである。

 シオニストに転向したばかりのエーミール・ルートヴィヒ
  「ヒトラーは数年もすれば忘れられるが、それでパレスチナに美しいモニュメントを建ててもらえるだろう。・・・」
  「ナチスの到来は歓迎すべきといってもよいくらいの事態だった。・・・」
  「完全にユダヤの教えを喪失した人びとがヒトラーによって改修のところまで連れ戻された。その点私の個人的感情をいえば
  大変ヒトラーに感謝している」
  ・・・・・シオニスト古参ハイム・ナハマン・ビアリクの見解と一致

95ビアリク・・・
 ヒトラー主義が、信仰に忠実なユダヤ人と背教ユダヤ人との間に線引きしなかった点を、シオニストは評価。

95-96
 シオニスト・ビアリク・・・ユダヤ教があらゆる国に浸透・・・・「この過程における最強の部隊は、我々ユダヤ人の中でもあらゆるタイプの
 「背教者」あるいは「同化主義者」であった。こうした西麓が、キリスト教の組織体そのものの中に入って内部そのものをかき回し、   
  ・・・
 ヒトラー同様、私もまた血の観念の持つ力を信じている。これらのユダyは人こそ、世界中の偉大な自由の運動、
 ルネサンス・リベラリズム・社会主義・共産主義、等々のための地均しをしていった人たちだった。もっとも、その人びとのかわりに
 偉大な非ユダヤ人の名前をあげることができるのもしばしばなのだが。・・・・」

96
 アメリカのラビ、エイブラハム・ジェイコブスン・・・「ヒトラーは神からの贈り物」といった上のような本末転倒の考え方を批判
同じジェイコブスン・・・
 「アメリカ・ユダヤ人のシオニズムに対する無関心に絶望して発せられた邪悪な願望の言葉、ヒトラーよ彼らのところに襲来せよ、
 そのとき彼らはパレスチナゆきの必要性を始めて悟るのだ、という不遜な言葉を我々は何度耳にしたことか・と。


97
ナチスとの最初の交渉

1933年5月、ナチスはコーエンと協定・・・ユダヤ人資産100万ライヒスマルク(40万ドル)分を工場機械のかたちで
パレスチナに送ることを決定。

 挫折

コーエンに代わってデリケートな交渉を担ったのは、ユダヤ機関(世界シオニスト機構パレスティナ・センター政治局長で
労働シオニストのアルロゾロフ
 

1933年5月はじめ、アルロゾロフとナチスはコーエンのお膳立てをさらに拡大するための予備的了解。
 6月にベルリン再訪、同14日テル・アヴィヴに戻った。その二日後、   
 アルロゾロフ、暗殺

 シオニスト=ナチ協定は、8月の第18回世界シオニスト会議(プラハ会議)に合わせてナチス側が発表。

  ナチスの発表・・・「ドイツ輸出品のかたちで300万マルク相当のユダヤ資産をパレスチナに移送することを
  ドイツ・ユダヤ人に認めるという協定」




世界シオニスト機構はナチスとの条約を正当化

101
「シオニスト=ナチ協定は、ボイコット決議案が審議されることになっていたその前日に公にされた。」
  
右翼「改訂派」指導者ウラディーミル・ジャポティンスキーは、ボイコット支持論を提案したが、
彼の提案が真剣に受け止められる見込みはなかった。

101-102
ジャボティンスキーによるボイコット支持およびナチ=シオニスト協定反対は、
民主的に選ばれた穏健執行部に対するテロリスト反対派のいきり立ちにすぎぬものとして退けられた。
彼の決議案は、48対240で否決された。


102
「ジャボティンスキーの決議案を否決したからといって、代議員たちがヒトラーとの取引に賛成というわけではなかった。」

執行部(指導部)代議員たちとの見解の相違:
「指導部は完全に見込み違いをし、協定が極めて受けの良いものと文字通り期待していた。
しかし、敵対的な反対に遭った。 

「指導部は敵対的な反対に遭うと肝をつぶし、まぎれもない嘘によって身を守ろうとした。

労働シオニストのリーダー、ベルル・ロッカーは「世界シオニスト機構執行部がドイツ政府との協定に導いた交渉に
関わるようなことは何もやっていない」と厚かましく宣言・・・しかし、こうしたお粗末な嘘をだれも信じなかった。


多くの代議員、とくにアメリカの代表は、ボイコットには賛成ながら、同時にジャボティンスキーには反対。

アメリカ代表スティーブン・ワイズは指導部に最後通牒をつきつけた。
「ドイツの……宣伝屋どもに、どうやって協定を利用させないようにするのか」指導部は説明すべし、と。


結局、指導部は「ハーヴァラ(移送)」協定にあえて公式の責任を負わず、協定に拘束されるのは、
あくまでドイツ政府形式上の署名人、アングロ・パレスタイン銀行だということにしたのであった。
 しかし、銀行は世界シオニスト機構の銀行だったから、敵味方双方にとってどう見てもおかしいとしか映りようがなかった。


102-103
 シオニスト=ナチ協定をめぐる議論は、荒れ模様のまま、1935年まで続行。

ハーヴァラはイェルサレム・オフィスの活動ピーク時には137名もpのスペシャリストを擁する、実質は銀行業務と貿易業務を
兼務する事業になった。



103
「協定の実施部分は、ナチの圧力に応じてつねに変化していたが、協定の本質そのものは常に変わらなかった。すなわち、
ドイツ・ユダヤ人はお金をドイツ国内の銀行に預けることができ、この金は、ドイツで売られしかも通常はパレスチナ向けに
限られない輸出商品の購入に用いられる。
 出国者が最終的にパレスチナに到着し、商品が最終的に売られれば、すでに購入した商品の支払い相当額をそこで受け取る。
 こういうシステムで動いていたハーヴァラの財務上の独創性がその運用を多方向に広げたが、ドイツ・ユダヤ人にとっての
運用の旨味がずっと変われらなかった点は、ユダヤ人資産をドイツから移出するのに、最も難点が少なかったことである。」


 (永岑注:シオニスト機構内部の指導部と一般シオニストのあいだの見解・利害の対立・・・ドイツ・ユダヤ人のうち、
  資産を持つ富裕層ブルジョア層は、執行部と一緒になって、ナチとの協定に基づき、自分の財産をパレスチナに移送することに、
  利益を見出した。しかし、シオニストのなかにおいて、パレスチナに移送すべき財産を持たないような層は、ナチス政府との協力に
  賛成ではなかった、ということだろう。・・・シオニスト内部の階級的利害対立にも、注意が必要ということ。)



「しかし、ルールを決定づけていたのはナチス側であり、ルールは時が経つにつれて改悪されていった。
 1938年には出国者の資産は平均で少なくとも30%の目減りを被り、さらに損失割合は50%にも及んだ。
 それでも他の目的地に移送されたユダヤ人資産が受忍せざるをえなかった損失に比較すれば、3倍、否、
 最終的には5倍も手元に残る計算となった。

 ハーヴァラの施策による、出国者一人当たりの移送額の上限は5万マルク’2万ドル、4千ポンド)であった。
 もっとも豊かなユダヤ人にはこれが関心を殺ぐ点になっていた。その結果、ハーヴァラを通じてパレスチナに向かった資産総額
 計4041万9千ドルであった。
 ちなみに合衆国には6億5千万ドル、イギリスには6千万ドル相当がドイツから移送されており、他へもかなりの額が移送された。
 したがってドイツ・ユダヤ人の資産がどれだけどこへ移送されたかという観点からすれば、ハーヴァラの重みは決定的とは言えなかった。

 しかし、シオニズム側からすれば、ことは重大であった。
 1933年8月から1939年9月までの間にパレスチナに投下された全資本の約60%はナチスとのこの協を通じて投資されたものだった。


104
 さらに英委任統治政府は、その入国移民数制限の理由にパレスチナ地域の経済的吸引キャパシティーの弱体性をまうあげることで、
 ユダヤ人の年間入国者数も設定していた。
 しかし、千ポンド(5千ドル){入国時の下限呈示金額}以上持ち込める余裕のある「資産家」が、割当平均を超えて
(いわば過剰代表されて)いたのが実態であった。
 こうして1万6529名の資本家が、シオニズムにとっての経済的収穫源というのみならず、人口増加分にもなった。
 彼らの資本投下はひとつの好況を現出させ、世界中が大不況の真只中にあったにもかかわらずパレスティナにはきわめて作為的な
 繁栄状態が創り出された。


 最初、世界シオニスト機構は、ボイコット破り、まぎれもない対ナチ協力、という非難に対して、ハーヴァラによる資本トランスファーは
必ずしもボイコット破りにはならない、と強調した。

 労働シオニストの上記協定弁護論、・・・モシェ・バイレンソン・・・・1922年には、ムッソリーニに対して、忠誠を誓った人物。


 シオニスト会議は、ユダヤ人の新しい政治的手腕を創造し発揮する勇気が見られた。・・・まことに第18回会議は、同化主義の伝統を
破壊する勇気を示した
。 
 今回我々はみずからの手に、「抗議という古い形態ではない」もう一つの武器、強力で頼りになる確実な武器、パレスティナへのヴィザ
 獲得したのである。





ユダヤ人の大多数はハーヴァラ協定に反対。
世界シオニスト機構を除いてハーヴァラ協定を弁護する者はいなかった。

ナチスと取引することはシオニスト機構陣営内部の人間にさえ、受けが良かったとは言えない。
プラハ会議開催中にさえ、抗議が殺到。

多少とも民主主義の伝統をそれぞれもっていたアメリカとイギリスでは、シオニストの多くが、運動指導者の幾人かも含め、
ハーヴァラに反対した。




1934年、ジュネーブのユダヤ人会議の演説…ワイズはパレスチナ・シオニズム勢力の中で支配的になった労働シオニストを攻撃。

   パレスティナのリーダーの一人が、プラハの会議で何度も繰り返したお題目は、「パレスチナが一番需要」だった。
   この会議がはっきり述べなければならないのは、他のあらゆる要素が等しくパレスティナに対して優先順位を譲る一方、
   もしパレスティナ優先の原則とそれよりも高次の道徳原則とが衝突した場合には、パレスティナ優先が取り下げられるということである。
   

ワイズはすでに世界シオニスト機構が腐敗しているのを確認していた。イスラエルの土地がイスラエルの民の要求よりも
はるかに重要になっているというのである。


労働シオニスト・・・彼らはユダヤ民族が存続できる唯一の道としての古いユダヤの地に新しいユダヤ人を見出していた。
真のユダヤ人民、ディアスポラ(離散)状況の何百万というユダヤ人も、労働シオニストにとっては国家建設のための
若い移入民を選び出す人的予備軍に過ぎなかった。





110
 世界シオニスト機構の元政治局長で、英貴族の中でも一流の歴史家であったルイス・ネイミアが、ルッピン(労働シオニスト)の本の緒言を書いてイル。
ネイミアは、ナホム・ゴルトマンを含めシオニスト知識人をユダヤ人の中の強度の反セム主義者とみなしている。




112
 「シオニズム的意味においてそこから最大限の利益を引き出そうと努めること」 


シオニスト指導部における内部闘争
  ジャボティンスキーとその改訂派の部下たち・・・世界シオニスト機構とすで袂を分かっていた。
  残りの改定派支持者たち(今やユダヤ人国家党と呼ばれていたグループ)は、あくまで世界シオニスト機構に
  忠実でありながらトランスファー協定の拒否を要求。



シオニスト機構政治局長(外相に相当するポスト)、モシェ・シャートク(後にイスラエル第二代首相に就任)・・・・執行部の対ヒトラー政策への堅固な支持表明。

     ユダヤ民族はエーレツ・イスラエルの構築ほどんじ、生存闘争成功への大いなる希望を崩壊し得たことはかつてなかった。


世界シオニスト機構の戦略を宣伝する最も重要なプロパガンディスト・・・シュリアヒム、すなわちパレスティナの労働シオニストによっては世界中に派遣される
死者になった者もいた。 
 ファシズムとの協調路線をすすんだイタリア・シオニストOBの一人であるエンツォ・セレーニは、1931年〜32年ドイツに使者として派遣された。・・・
 セレーニは、ヒトラーユダヤ人をシオニズムに駆り立てる神の鞭と見立てた人間のひとりであった。


セレーニのルツェルン会議での発言:
   我々がパレスチナ構築のためにドイツのユダヤ人迫害を利用したという事実について恥ずべきことは何もない。
   そういうふうに昔の聖賢・指導者は我々を教えてkたのだ……ディアスポラのユダヤ住民の破局民族構築のために利用することを。



114
シオニズム機構総裁も務め、1933年末当時はドイツ・ユダヤ人定住中央局の責任者を務めていたヴァイツマンの発言:

   ドイツのユダヤ人に加えられつつあるすべての迫害に対する唯一の威厳ある真に有効な返答は、
   われわれの偉大な美しい作業によって建設されるイスラエルの地の壮麗な建物である。……
   我々すべてが被っている悲嘆を我々の孫たちの歌と伝説に変えるであろうところのものが創造されつつあるのだ。



  

118
 ユダヤ人の大多数がハーヴァラ協定を裏切り行為として反対していた時に、すくなくともそれに対極的な立場の人間もいた。
 彼の場合はヴァイツマンとその友人が十分成功していないという不満を進んで公表。 
 すなわち、グスタフ・クローヤンカー・・・パレスティナ・ドイツ移入民教会の指導者のひとり。
  1936年に組織は『移送――シオニズム運動の死活問題』と題するパンフレットを出版。

119  
 クローヤンカーは、シオニスト指導部が1933年にハーヴァラ協定を公式に確認して支持する勇気をなぜもたないのかと叱咤した。
 指導部の態度は、彼に言わせれば「ディアスポラ心性」とみなせるものへの屈服に他ならなかった。



 


120
 「この種の状況において大切なのは民族のモラル・スタンスである」


 
ハーヴァラから利益を他の誰よりも得たのはナチスであった。
 ハーヴァラはナチスが余分なユダヤ人を追い出すのを助けたというだけではない。
 なおドイツと取引を続けたがっているすべての人間にとって完璧な正当化根拠を提供したから、国外でも巨大な価値があった。


 







第7章 ヒトラーはシオニズムをどう見ていたか

少年期・・・対ユダヤ人観…まったく穏健

124
ウィーンの旧市街をうろつきまわっているうちにガリツィアのハシディズム信奉のユダヤ人に出くわす
「長いカフタンを着用し黒い頭髪をたばねたユダヤ人が眼前にあられた。これもユダヤ人か?というのが私の最初に考えたことだった。



125
 『わが闘争』からの抜粋(ドイツ語該当箇所、ミュンヘン現代史研究所版)

 レニ・ブレンナー、「シオニズムの古典的役割反セム主義の先導者であること」をヒトラーの我が闘争の言明が証明。125ページ


 ヒトラーのウィーンでの経験:ヒトラーのシオニズム評価

 「ユダヤ人の間でかなり広範囲に展開されていた一大運動」・・・シオニズム運動
 
(ミュンヘン現代史版『わが闘争』の注記では、「一大運動」ではなく、ユダヤ人の内部で極めて少数派の運動。
 多数派のユダヤ人は、シオニズムに拒否的だった、と。 

Die Anhänger des frühen Zionismus waren vor allem osteuropäische Juden, die teilweise nach Westeuropa emigriert waren. Die Wiener jüdische Gemeinde und das weitgehend assimilierte jüdische Bürgertum der Stadt distanzierten sich jedoch von dieser




ブレンナー、125
「ヒトラーにシオニズムの問題を再考させるようになったのは、バルフォア宣言であり、ドイツの敗北、ヴァイマル共和国を生んだ革命であった」





ユダヤ人問題でヒトラーより先にローゼンベルクが先に1919年の著書で、
「シオニズム・イデオロギーが、ドイツ・ユダヤ人からの権利を剥奪する正当化理論として驚異的に役立ち、おそらくは将来、
ユダヤ人の出国促進のためにシオニズム運動を利用し得る可能性が存在するとも感じていた。」


ヒトラーにとってのシオニズムの価値(ヒトラー流のみ下した判断で、それは当然にもシオニストの考えとは違う)

 「{シオニストは自分が堂々と異民族であることを公言する}、というのも、シオニズムが、他の世界の人びとに、
パレスチナ国家創設によってユダヤ人の民族至上の自己意識は満たされるのだと信じ込ませようとすることによって、
ユダヤ人は、愚鈍な非ユダヤ人をこの上なくずるがしこい方法でまたまただますからである。
パレスティナのどこかに住むためにユダヤ人国家を創設する、とは彼らは全然考えていない。
ただ自らの主権が備わり、他の国家の介入が封じられた、国際的な世界詐欺センター組織、すなわち
犯罪が確定されたルンペンの隠れ家、詐欺師候補生の大学を望んでいるに過ぎない。」 (ブレンナー、126-127






128
ナチのシオニズム後援

129
 
「ヒトラーは、権力を握るまでは、権力掌握後の対ユダヤ人政策をどうするかについて全然真剣に考えていなかった。
 『わが闘争』で述べた内容以上のことで、最も親しい部下に対してもユダヤ人に究極的に何を計画しているかを
明かしたという事実を示す者は存在しない。」


129-130
 党内には、「根が穏やかなのに、余計なことを喋る」平均的な親衛隊員。しかし、
「もしユダヤ人の絶滅について云々する者がいても、ヒトラーは「善いユダヤ人もいる」という弁明を必ずおこなったし、
絶滅論者はいったいどこにいる、ということになった。それに、資本家は彼らなりに国外にユダヤ人とのビジネス関係を有し、
教会も存在していたんどえあり、宗教倫理からしても殺人の正当化は考えられなかった。
ヒトラーは自分の問題ではないかのごとく無視することで解消をはかり、適当な政策への道をナチ党のあらゆる部署に
それぞれ勝手に手探りさせることになった。これは不可避的に相争う分派をたくさん作りだした。
つねにあからさまなテロル政策を信奉する者も多かった。国外でユダヤ人と数々のコンタクトを持つ者によってだけでなく、
ユダヤ人がドイツ国内経済に深く根を下ろしているとみていた他の人びとによっても反対されながら、
テロル信奉者が数の上では優っていた。」

(永岑の疑問:この主張の実証的根拠は?
 ヒトラー自身は、1939年1月30日の国会演説で、「もしも国際金融資本が世界戦争を引き起こしたら」、
その場合には、第一次世界大戦の帰結=ボルシェヴィズムの勝利「ユダヤj勝利」とは違って、「ユダヤ人絶滅だ」と予言してみせた)


130
「ゲットー化をただちにはかろうとする党派もかなりあったが、同じ規模の異論グループがこれに対立していた。」
 (永岑疑問点:実証的裏付けは?)

 
「出国政策は唯一の明確な解決法であったが、どこへ出国させるかが問題であった。
大量のユダヤ人出国自体、他の国々の首都間でのドイツ・ベルリン評価を下げることになるのみならず、
世界の他のどこかの首都に膨大な数のこのユダヤ人が到着すればどういう事態になるかも問題であった。
したがって世界各都市はユダヤ人に対してだけでなく他の市民に対しても反ナチ・ドイツ宣伝を煽ったし、
ドイツの貿易に対して各国が与える影響も当然破局的なものになると考えた。
シオニスト機構、サム・コーエン、ドイツシオニスト連合が誰よりも先に移送協定案を持ってナチスの前にあらわれたのは、
まさにこうした状況においてであった。


ハーヴァラ協定のプロパガンダ効果・・・「ユダヤ人にたいして恩恵を施している」と1933年10月24日、ヒトラー演説。

 「われわれは依然寛大な措置を取り、我々が持っているよりもはるかに高い生存の可能性をユダヤ民族に与えているのである」と。

131
ヒトラーがいったんこうした演説をおこなうと、公然と親シオニズム政策を展開。
すでに9月には当時バイエルン州法相で、後にはポーランド総督を務めたハンス・フランクがニュルンベルク党大会で、
ユダヤ人にとってもキリスト教徒にとってもユダヤ人問題の最良の解決は、パレスチナを
ユダヤ人の民族的郷土にすることだ、と述べた。

132
 「今やナチ宣伝家にとってはパレスティナがユダヤ人問題解決の格好の出国先となったのである。」








第8章 パレスティナ――アラブ、
     シオニスト、イギリス、ナチス




第9章 世界ユダヤ人会議



第10章 改訂派シオニズムとイタリア・ファシズム



第11章 シオニスト改訂派とナチス


第12章 ゲオルク・カーレスキ――クヴィスリング以前の、
    シオニストの中のヒトラー「クヴィスリング」


第13章  選ばれた人を選別する――「シオニストの酷薄さ」の原則



第14章 世界シオニスト機構とイタリア・ファシズム


第15章 オーストリアと「クリスチャンの中の、シオニズムの友だち」



第16章 東欧のユダヤ政党


第17章 スペイン――ナチスは闘い、シオニストは闘わず


第18章 自由民主主義政体におけるシオニズムの反ナチ闘争の敗北


第19章 シオニズムと日本の「大東亜共栄圏」


第20章 ポーランド、1918〜1939


第21章 ホロコ―スト期のポーランドにおけるシオニズム


第22章 シオニストとポーランド亡命政権のなれあい


第23章 非合法入国


第24章 戦時の救出失敗


第25章 ハンガリー、犯罪の中の犯罪


第26章 シュテルン団